吉野町
奈良県のほぼ中央に位置する吉野町。 奈良県の政治経済の中心である大和盆地の南に横たわる龍門山系をひと越えすれば、そこには大台ヶ原に源を発し滔々と流れる吉野川、さらにその南には重畳たる吉野大峯の山々が控えています。そのような自然豊かな吉野は、大和盆地に都が置かれた太古の昔から、遙か東京の地に都が置かれる現代に至るまで、日本人の心を強く惹いて止みません。
飛鳥時代に聖徳太子の手によって法隆寺が建立されたことなどでよく知られる、古い歴史を持つまちである。法隆寺のすぐ西に広がる西里の集落は、近世初期の日本で最も組織的な力をふるった大工棟梁中井正清の育った集落でもある。それ以外にも多くの古い町並みが存在するが、高度経済成長以降、大阪のベッドタウンとして都市化が進み、落ち着いた町並みも、もはや過去のものとなりつつある。また、古都保存法の指定都市でもある。
飛鳥時代の607年(推古15年)、聖徳太子の父である用明天皇の願いであった寺院建立と薬師像の安置をかなえるために、法隆寺を創建しました。
夢殿を中心とする東院伽藍は、738年(天平10年)ごろに法隆寺の高僧行信がかつて斑鳩宮があった土地に聖徳太子を偲んで建てたものです。1993年(平成5年)には「法隆寺地域の仏教建造物」のひとつとして、ユネスコの制定する世界文化遺産に登録されました。
聖徳太子が推古天皇13年(605年)、摂政として飛鳥からこの地に斑鳩宮を置き移り住んだのが斑鳩の里の始まりとなります。
この太子ロマンの道は斑鳩の東南、遠く飛鳥を結んだ太子道の道筋を歩く太子ゆかりの歴史が随所にみられる約4㎞のルートです。
斑鳩町法隆寺iセンター→法隆寺→夢殿→中宮寺→中宮寺跡→駒塚古墳→調子丸古墳→太子道→業平道→上宮遺跡公園→成福寺(伝・葦垣宮)→興留・素盞鳴神社→法隆寺門前
法隆寺から当麻寺への信仰の道、 当麻街道の古い道標や石仏が当町南の方に残っており、信仰、伝説、 条里制の田園風景なども楽しんで歩いていただく約7㎞のコースとなっております。
iセンター→初代奈良丸碑→法隆寺献燈一対→古い標識→並松(奈良街道)→日切地蔵(継子地蔵)→業平姿見の井戸→条里の森(説明板)→吉田寺→服部→条里制→三代川→目安・融念寺→五百井→伊弉冊命神社→斑鳩大塚古墳→法隆寺門前
map
tour
現在、ツアーの予定はございません。
斑鳩町役場
〒636-0198奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西3丁目7番12号
https://www.town.ikaruga.nara.jp/0000000313.html
電車:大阪から約35分JR[大阪駅]大和路線→[法隆寺駅]
車:西名阪自動車道[法隆寺I.C.]下車北へすぐ
Others
奈良県のほぼ中央に位置する吉野町。 奈良県の政治経済の中心である大和盆地の南に横たわる龍門山系をひと越えすれば、そこには大台ヶ原に源を発し滔々と流れる吉野川、さらにその南には重畳たる吉野大峯の山々が控えています。そのような自然豊かな吉野は、大和盆地に都が置かれた太古の昔から、遙か東京の地に都が置かれる現代に至るまで、日本人の心を強く惹いて止みません。
三郷町(さんごうちょう)は、奈良県の西部に位置する町。竜田の紅葉で知られています。信貴山の東南麓に位置し、大和川を南限となります。 古代の大和国平群郡の地であり、風神を祭る龍田大社(延喜式名神大社)が鎮座しています。 江戸時代、本業としてわら草履製造を家業とし、現在も和履き・「ミサトッコ」の製造(雪駄、草履)を継承しています。 童謡詩人である武鹿悦子が在住しており、平成30年4月1日に三郷町は「童謡のまち」を宣言を行いました。 令和2年「龍田古道・亀の瀬」が日本遺産に認定されました。
宇陀川・芳野川沿いの平地を山が取り囲む地形で、その大半が森林である。旧菟田野町域・旧大宇陀町域・旧榛原町域の旧市街地は平地に位置するが、その他は山地、狭隘地に集落が点在する。旧榛原町域の北側、旧室生村域の北側・南側、旧菟田野町域の南側は、標高が高い山岳部につながっている。
飛鳥時代に聖徳太子の手によって法隆寺が建立されたことなどでよく知られる、古い歴史を持つまちである。法隆寺のすぐ西に広がる西里の集落は、近世初期の日本で最も組織的な力をふるった大工棟梁中井正清の育った集落でもある。それ以外にも多くの古い町並みが存在するが、高度経済成長以降、大阪のベッドタウンとして都市化が進み、落ち着いた町並みも、もはや過去のものとなりつつある。また、古都保存法の指定都市でもある。
田原本町は、奈良盆地の中央部に位置する緑豊かな田園都市です。歴史の国、大和の中でもっとも早くから開けた地域で、弥生時代の集落遺跡「唐古・鍵遺跡」など数多くの遺産が残っています。周囲は、三輪⼭や⼆上⼭など青垣の⼭々に囲まれ原点回帰とも呼べるような悠久の歴史を体感することができます。 豊かな土壌に恵まれた本町では、米作りを中心に、なす、ほんれんそうや花卉、イチジクなどの栽培が盛んに行われ、その中でも特に、 奈良県ブランドいちごの古都華や大和の伝統野菜としても認定されている味間いもは本町を代表する特産品となっています
橿原市は、奈良県のほぼ中央に位置し、東西7.5km、南北8.3kmの広がりを見せ、東は桜井市、西は大和高田市、南は高取町・明日香村、北は田原本町と接しています。面積は39.56平方キロメートルで、全体的に起伏が少なく、市内の中央部には飛鳥川、西には曽我川が流れています。また、万葉の時代を偲ばせる大和三山(畝傍山:標高199m、耳成山:139m、香久山:152m)がそびえ、その中央には約1300年前にわが国初の首都であった藤原宮跡があります。
葛城市は古くより、豊かな自然と古代からの歴史と文化の香り高いまちとして輝いてきました。 国宝・當麻曼荼羅をはじめ数多くの国宝や重要文化財を伝える當麻寺、我が国最古の官道である竹内街道、相撲発祥の地であることなど、名所・旧跡は多く、訪れる多くの人々を魅了し続けています。
桜井市には、三輪山を御神体とするわが国最古の神社である大神神社や、桜やボタンなど四季を通じ、「花の寺」として多くの人々の信仰を集めている長谷寺、秋の紅葉と「けまり祭」などで有名な多武峰談山神社、日本三文殊の一つで知恵の神様として親しまれている安倍文殊院、安産と子授けの地蔵尊として信仰を集めている聖林寺などがあります。また、多彩な伝承の舞台が展開し、古代の大王たちが眠る古墳が点在する山の辺の道や、門前町の姿を今に残している初瀬などは、行楽シーズンを中心に多くの人々でにぎわっています。
市東部の山間部と接する平野部は、古代大和の創黎明期に原始的国家を形成した地域であり、古墳時代には丘陵部から平坦部にかけて集落が発展していました。 この東部山麓を通る日本最古の主要道路といわれる「山の辺の道」に沿った地域は、古くから文化が開けていた地域の一つです。 江戸時代から、丹波市は市場・宿場町、柳本は城下町、櫟本は市場町として発展し、二階堂から朝和にかけては豊かな農村として栄え、現在でも環濠集落の一部が残っています。天保年間には、中山みきが天理教を興し、天理教の成長とともに、特色あるまちとなっています。
奈良市は奈良県の北部に位置する県庁所在地で、人口約35万人の中核都市で、世界遺産や、 東大寺や春日大社、興福寺など、古都の歴史に触れられるのも魅力です。 平城京跡や奈良公園などの広大な公園があり、奈良県立美術館・奈良国立博物館などの文化施設もあり、子どもから大人まで楽しめる観光スポットです。
明日香村は、6世紀末から7世紀にかけての約100年間、都が置かれ、聖徳太子の「一七条憲法の制定」、中大兄皇子と中臣鎌足による「大化の改新」など、律令国家体制の礎が築かれた「日本のはじまりの地」として知られています。 高松塚古墳、石舞台古墳をはじめとした歴史的遺産に加え、明日香村には1,400年にわたり守られてきた豊かな棚田や里山があります。
曽爾村は奈良県の東北端に位置し、三重県名張市、津市、奈良県御杖村、宇陀市及び東吉野村に接し、室生火山群に属する1000m級の山々に囲まれた美しい火山地形からなっている谷間盆地です。総面積は47.84k㎡でそのうち86%が森林に覆われています。村の中央を流れる曽爾川に沿って9つの集落が形成されています。村の西側には柱状節理の岩壁があらわな屏風岩、兜岳及び鎧岳は国の天然記念物に指定され、また東側にはススキの大海原で有名な曽爾高原があり、村の大半が室生赤目青山国定公園に指定され風光明媚な村です。 本村の産業は、農林業と観光で支えられ、特に、夏でも寒暖差があることからトマトやほうれん草などの高原野菜が盛んに生産され、「食」と「自然美」で観光客をお迎えしています。
十津川村は奈良県の最南端に位置し、西は和歌山県、東は三重県に接しています。面積は672.38k㎡で、村としては日本一の広さを誇ります。 源泉かけ流しの温泉や、清流、滝、吊り橋など、気持ちの良い大自然が村の魅力です。
奈良県川上村は吉野川(紀の川)の源流に位置する水源地の村です。 吉野川の豊かな水は、源流部の山々にたくさんの雨が降って、ゆっくりと時間を掛けて流れ出すことによって保たれています。美味しい水とキレイな空気、森林に囲まれた地域です。特に、村が保全している「吉野川紀の川源流-水源地の森」は村のシンボルとも言えます。川上村は吉野川の源流として自らその役割を果たして行こうと平成8年に「川上宣言」をされました。
天川村は紀伊半島中部に位置し、周囲は大峯山系の山々に囲まれ、谷間の集落は441m~820mの標高にあり、気温は奈良盆地より3~5度低く、夏は過ごしやすく冬は雪景色を楽しめます。 歴史も深く、役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖とする修験道や、国の政(まつりごと)の中心人物たちと深い関わりをもちつづけた秘められた歴史は、地域の伝承として受け継がれています。 また、神々が生まれ住まう場所とされる高天原に由来する「天の川」という名がこの辺りの河谷に名付けられたという伝承があり、この地域は定住することがはばかられた一種の聖域だったとも考えられています。